2011-01-23(Sun)
カンポ・リグーレ
日本への帰国が迫り、これが最後の旅になってしまいました。最後の締めは、やはり、イタリアの「最も美しい村」への“小さな旅”です。カンポ・リグーレはジェノヴァの北35キロにある3方を川で囲まれた人口3000人の小さな村です。昔の地名は、カンポ・フレッドと言われていたそうです。カンポはキャンプの意味で、ローマ時代にローマの軍隊がここにキャンプを築いたことによります。フレッドは“冷たい”の意味ですが、3方にある川の水が冷たかったのでしょうか。従って、ローマ時代から存在を確認されている古い村なのです。この村は、16世紀から長い間ジェノヴァの支配下にあったのですが、それ以前の14,5世紀に支配していたパプスブルグ家に忠誠を誓って、ジェノヴァの支配に対して反発を続け、18世紀のオーストリア継承戦争でもオーストリア側についてジェノヴァと戦ったそうです。こんな小さな村でもその村独自の歴史があるのがイタリアなのです。
カンポ・リグーレの駅からストゥーラ川沿いに歩いてカンポ・リグーレ村に入ります。村の入口には17世紀中旬に建てられたバロック様式の小さな“サン・セバスチャーノとサン・ロッコ”の礼拝堂がありました。外観は小さくてもバロック様式の内装は豪華です。装飾とフレスコ画で覆われていました。村は、パステルカラーの可愛い建物が細い石畳の道に並んでいます。さすがに「最も美しい村」です。家々には花が飾られていて、道にはゴミひとつ落ちていません。


メインストリートを進むと直ぐに村の中心にあるヴィットリオ・エマニュエル広場に出ます。この広場には13世紀に建てられたジェノヴァからの支配者が住んだスピニョーラ宮殿とこの村のドゥオモである“キリストの生誕と聖処女の教会”(Nativita di Maria Vergine)があります。広場から西の丘にはスピニョーラ城が見え、東にはストゥーラ川にかかる中世の橋が見えます。

広場から西の丘の上を目指しました。途中に16世紀には既に存在を確認されている“聖母被昇天”(Nostra Signora dell’Assunta)の教会があります。ここもバロック様式の豪華な内装の教会でした。その教会の脇の階段を上がるとスピニョーラ城が見えます。

スピニョーラ城はジェノヴァのスピニョーラ家が13世紀に築いたお城ですが、居城ではなく丘の上に建つ歩哨の塔だったようです。東西と南には川があり、北側の岩山地帯だけが陸続きで、この岩山を越えて攻めこんで来る敵を見張るための歩哨塔だったのだと思います。同時に、ここからジェノヴァに反発を続けている村人をも見張る必要があったのかもしれません。従って、村全体も一望できます。

もう一度広場まで戻り、今度は東にある中世の石橋に出ました。この橋に面する小さな広場にインフォメーションもありました。この橋はサン・ミケーレ橋と呼ばれていて、最初に建てられたのは9世紀だそうです。しかし、度々起きた川の氾濫で破壊と修理を繰り返し、最終的には1842年に再建されたのが今に残っています。9世紀の建築は、最初の仕切り部分にだけ残っています。しかし、9世紀から19世紀まで、橋のデザインも変えずに、同じ構造で修理をしていたのですから驚きです。1000年の間技術的な進歩をいっさい加えていないこともイタリア的と言えるかもしれません。

ストゥーラ川を越えた先にある、今は使われていないサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会も同じような運命をたどっています。13世紀にその名が記録に残っていますが、何度も洪水で破壊され、最終的には1935年の洪水の後に建て直されたものとなっています。

最後に川の傍にある丘の上から、この何度も洪水にあった街の全景を眺めて。街を後にしました。駅に戻りながら、昔の村の名である“フレッド”の意味が解ったような気がしました。度々の洪水によって、何度も冷たく冷やされた街だったのです。洪水の“フラッド”とも関連があるのかもしれません。

カンポ・リグーレはイタリア国鉄駅がありますが、駅員のいない無人駅です。但し、構内にタバッキがありますので、まさかのときは安心です。ジェノヴァからカンポ・リグーレまでは、午前中の普通列車は7時と9時の2本しかありません。所要時間が35分で料金は2.4ユーロです。ジェノヴァへの戻りは、午後になると1時間間隔で普通列車があります。
ミラノとジェノヴァの往復については、何度もお知らせしていますので、昔の報告を見てください。
カンポ・リグーレの駅からストゥーラ川沿いに歩いてカンポ・リグーレ村に入ります。村の入口には17世紀中旬に建てられたバロック様式の小さな“サン・セバスチャーノとサン・ロッコ”の礼拝堂がありました。外観は小さくてもバロック様式の内装は豪華です。装飾とフレスコ画で覆われていました。村は、パステルカラーの可愛い建物が細い石畳の道に並んでいます。さすがに「最も美しい村」です。家々には花が飾られていて、道にはゴミひとつ落ちていません。






メインストリートを進むと直ぐに村の中心にあるヴィットリオ・エマニュエル広場に出ます。この広場には13世紀に建てられたジェノヴァからの支配者が住んだスピニョーラ宮殿とこの村のドゥオモである“キリストの生誕と聖処女の教会”(Nativita di Maria Vergine)があります。広場から西の丘にはスピニョーラ城が見え、東にはストゥーラ川にかかる中世の橋が見えます。



広場から西の丘の上を目指しました。途中に16世紀には既に存在を確認されている“聖母被昇天”(Nostra Signora dell’Assunta)の教会があります。ここもバロック様式の豪華な内装の教会でした。その教会の脇の階段を上がるとスピニョーラ城が見えます。



スピニョーラ城はジェノヴァのスピニョーラ家が13世紀に築いたお城ですが、居城ではなく丘の上に建つ歩哨の塔だったようです。東西と南には川があり、北側の岩山地帯だけが陸続きで、この岩山を越えて攻めこんで来る敵を見張るための歩哨塔だったのだと思います。同時に、ここからジェノヴァに反発を続けている村人をも見張る必要があったのかもしれません。従って、村全体も一望できます。



もう一度広場まで戻り、今度は東にある中世の石橋に出ました。この橋に面する小さな広場にインフォメーションもありました。この橋はサン・ミケーレ橋と呼ばれていて、最初に建てられたのは9世紀だそうです。しかし、度々起きた川の氾濫で破壊と修理を繰り返し、最終的には1842年に再建されたのが今に残っています。9世紀の建築は、最初の仕切り部分にだけ残っています。しかし、9世紀から19世紀まで、橋のデザインも変えずに、同じ構造で修理をしていたのですから驚きです。1000年の間技術的な進歩をいっさい加えていないこともイタリア的と言えるかもしれません。



ストゥーラ川を越えた先にある、今は使われていないサン・ミケーレ・アルカンジェロ教会も同じような運命をたどっています。13世紀にその名が記録に残っていますが、何度も洪水で破壊され、最終的には1935年の洪水の後に建て直されたものとなっています。



最後に川の傍にある丘の上から、この何度も洪水にあった街の全景を眺めて。街を後にしました。駅に戻りながら、昔の村の名である“フレッド”の意味が解ったような気がしました。度々の洪水によって、何度も冷たく冷やされた街だったのです。洪水の“フラッド”とも関連があるのかもしれません。



カンポ・リグーレはイタリア国鉄駅がありますが、駅員のいない無人駅です。但し、構内にタバッキがありますので、まさかのときは安心です。ジェノヴァからカンポ・リグーレまでは、午前中の普通列車は7時と9時の2本しかありません。所要時間が35分で料金は2.4ユーロです。ジェノヴァへの戻りは、午後になると1時間間隔で普通列車があります。
ミラノとジェノヴァの往復については、何度もお知らせしていますので、昔の報告を見てください。
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