2012-10-08(Mon)
街歩きのコツ(ローマ遺跡)、その3
長い間ブログの更新をさぼっていました。1カ月以上になります。
イタリアの街歩きは、もちろん、その街の名所旧跡を訪ね歩くことが主な目的の一つです。イタリアの街や村に必ずあるのが教会で、その次にお城や宮殿があります。お城や宮殿には博物館や美術館が付属していますから、これらだけでも観光するのが大変です。それに加えて、素晴らしい景色と美味しいイタリアの食べ物にも誘惑されてしまいます。ですから、1日だけの観光では街の文化や雰囲気を味わう時間がとれないこともあります。
今回は、個人的な興味もあり、ローマ時代の遺跡について話をしたいと思います。中世のイタリアを観光するのも大変なのにローマ遺跡観光までは時間が取れない人も多いと思いますが、これが、結構、面白いのです。ローマ遺跡は、イタリアの観光地のランキング、その20と21でも紹介しましたが、今回は、見方を少し変えてみました。
ローマ遺跡の中で、一番目立つのは、ローマのコロッセオのような大きな円形闘技場です。ローマのコロッセオはあまりにも有名なので知らない人はいないでしょう。コロッセオほど大きくはありませんが、各街にもローマ時代には円形闘技場がありました。これまで訪ねたことがあるところだけでも、ローマを除いて9つあります。まず、一番完全な形で残っているヴェローナのアレーナ(写真上段の左)、ほとんど形が無くなっているミラノの円形闘技場(写真上段の中)、パドヴァの円形闘技場は現在では綺麗な楕円形の公園になっています(写真上段の右)。ルーニでも円形闘技場が発掘されてましたが現在修復中の様です(写真中断の左)。リミニでは保育園の裏庭に遺跡だけがありました(写真中断の中)。ルッカでは中世に楕円形の広場として使われて現在に至っています(写真中断の右)。アレッツォでは遺跡を利用したコンサート会場になっていました(写真下断の左)。アッシジでは楕円形に住宅が並んでいます(写真下段の中)。ポンペイにも完全に近い状態のりっぱな円形競技場がありました(写真下段の右)。



次は円形劇場です。これもあちこちにありました。地元ミラノでは、19世紀に建てられた建造物の下にありました。証券取引所の地下に残っていて、平日だけで、しかも予約しなければ見学できません。トリノではドゥオモと王宮の間にありました(写真上段の左)。ブレシアにもローマ時代の神殿遺跡のすぐ横に発掘途中の円形劇場がありました(写真上段の中)。ヴェローナでは街から離れたアディジェ川の向こう岸にありました(写真上断の右)。東の果てのトリエステではお城に続く坂の昇り口にありました(写真中断の左)。ルーニの円形劇場はまだ発掘途上です(写真中段の中)。ポンペイにはもちろん、かなり完全な形の円形劇場の遺跡があります(写真中段の右)。そして、シチリアのタオルミーナの円形劇場からは運が良ければエトナ山が見えます(写真下段の左)。それらのローマ時代の遺跡の他に、中世に建てられたローマ劇場もあります。ヴィチェンツアのオリンピコ劇場(写真下段の中)とサッピオネータにある古代劇場(写真下段の右)です。いずれも遠近法を駆使して小さな劇場を大きく見せる工夫が素晴らしいのです。



ローマのフォロ・ロマーナは素晴らしいですね。ローマ帝国の偉大さを感じます。ローマほどの規模の遺跡は見たことがありませんが、フォロの遺跡は各地にあります。しかし、街の中心部にあるフォロは、ミラノ、トリノ、リミニやヴィチェンツァ等のような歴史のある大都市では、中世の時代に、当時よりもより高い技術で堅固に出来ているローマ時代の建物の基礎を土台にして、現在でも貴重な中世の歴史的建造物を立ち並べてしまったのです。従って、そこにあるのはわかっていても発掘するわけにはいかないのです。要するに、現在でもフォロの遺跡が見られるところは、ローマ時代には大都市であっても、ローマにあるフォロ・ロマーナを除いて、今ではほとんど消滅しているような小さな田舎街に限られてしまいます。写真左はルーニのフォロ遺跡、写真中はアクィレイアのフォロ遺跡で、写真右はポンペイのフォロ遺跡です。

ローマ時代の神殿はがっちりした土台の上に造られていることが多いようです。写真左は今でも教会として使われているアッシジのミネルヴァ神殿です。写真中はブレシアのカピトリーノ神殿の遺跡、写真右はルーニにあるローマ神殿の遺跡です。

教会や中世の建物や美術も素晴らしいのですが、ローマ時代の遺跡も好きです。これらのローマ時代の遺跡を見ていると、中世におけるヨーロッパの文化と科学の衰退を感じてしまいます。中世における衰退が無くローマ時代の技術力がそのまま続けて現在まで成長していたら、ルネッサンスなど必要なく、産業革命は1000年くらい早く起きたでしょう。そして、今頃、人類はもう火星に移住していたかもしれません。この技術力の遅れが全てキリスト教の責任であるとまでは言いませんが、少なくとも中世の宗教家たちの頭が固かったことが原因の一つであることは間違いありません。
次回は、各地の街を歩いて見つけたイタリアの花を紹介するつもりです。
イタリアの街歩きは、もちろん、その街の名所旧跡を訪ね歩くことが主な目的の一つです。イタリアの街や村に必ずあるのが教会で、その次にお城や宮殿があります。お城や宮殿には博物館や美術館が付属していますから、これらだけでも観光するのが大変です。それに加えて、素晴らしい景色と美味しいイタリアの食べ物にも誘惑されてしまいます。ですから、1日だけの観光では街の文化や雰囲気を味わう時間がとれないこともあります。
今回は、個人的な興味もあり、ローマ時代の遺跡について話をしたいと思います。中世のイタリアを観光するのも大変なのにローマ遺跡観光までは時間が取れない人も多いと思いますが、これが、結構、面白いのです。ローマ遺跡は、イタリアの観光地のランキング、その20と21でも紹介しましたが、今回は、見方を少し変えてみました。
ローマ遺跡の中で、一番目立つのは、ローマのコロッセオのような大きな円形闘技場です。ローマのコロッセオはあまりにも有名なので知らない人はいないでしょう。コロッセオほど大きくはありませんが、各街にもローマ時代には円形闘技場がありました。これまで訪ねたことがあるところだけでも、ローマを除いて9つあります。まず、一番完全な形で残っているヴェローナのアレーナ(写真上段の左)、ほとんど形が無くなっているミラノの円形闘技場(写真上段の中)、パドヴァの円形闘技場は現在では綺麗な楕円形の公園になっています(写真上段の右)。ルーニでも円形闘技場が発掘されてましたが現在修復中の様です(写真中断の左)。リミニでは保育園の裏庭に遺跡だけがありました(写真中断の中)。ルッカでは中世に楕円形の広場として使われて現在に至っています(写真中断の右)。アレッツォでは遺跡を利用したコンサート会場になっていました(写真下断の左)。アッシジでは楕円形に住宅が並んでいます(写真下段の中)。ポンペイにも完全に近い状態のりっぱな円形競技場がありました(写真下段の右)。









次は円形劇場です。これもあちこちにありました。地元ミラノでは、19世紀に建てられた建造物の下にありました。証券取引所の地下に残っていて、平日だけで、しかも予約しなければ見学できません。トリノではドゥオモと王宮の間にありました(写真上段の左)。ブレシアにもローマ時代の神殿遺跡のすぐ横に発掘途中の円形劇場がありました(写真上段の中)。ヴェローナでは街から離れたアディジェ川の向こう岸にありました(写真上断の右)。東の果てのトリエステではお城に続く坂の昇り口にありました(写真中断の左)。ルーニの円形劇場はまだ発掘途上です(写真中段の中)。ポンペイにはもちろん、かなり完全な形の円形劇場の遺跡があります(写真中段の右)。そして、シチリアのタオルミーナの円形劇場からは運が良ければエトナ山が見えます(写真下段の左)。それらのローマ時代の遺跡の他に、中世に建てられたローマ劇場もあります。ヴィチェンツアのオリンピコ劇場(写真下段の中)とサッピオネータにある古代劇場(写真下段の右)です。いずれも遠近法を駆使して小さな劇場を大きく見せる工夫が素晴らしいのです。









ローマのフォロ・ロマーナは素晴らしいですね。ローマ帝国の偉大さを感じます。ローマほどの規模の遺跡は見たことがありませんが、フォロの遺跡は各地にあります。しかし、街の中心部にあるフォロは、ミラノ、トリノ、リミニやヴィチェンツァ等のような歴史のある大都市では、中世の時代に、当時よりもより高い技術で堅固に出来ているローマ時代の建物の基礎を土台にして、現在でも貴重な中世の歴史的建造物を立ち並べてしまったのです。従って、そこにあるのはわかっていても発掘するわけにはいかないのです。要するに、現在でもフォロの遺跡が見られるところは、ローマ時代には大都市であっても、ローマにあるフォロ・ロマーナを除いて、今ではほとんど消滅しているような小さな田舎街に限られてしまいます。写真左はルーニのフォロ遺跡、写真中はアクィレイアのフォロ遺跡で、写真右はポンペイのフォロ遺跡です。



ローマ時代の神殿はがっちりした土台の上に造られていることが多いようです。写真左は今でも教会として使われているアッシジのミネルヴァ神殿です。写真中はブレシアのカピトリーノ神殿の遺跡、写真右はルーニにあるローマ神殿の遺跡です。



教会や中世の建物や美術も素晴らしいのですが、ローマ時代の遺跡も好きです。これらのローマ時代の遺跡を見ていると、中世におけるヨーロッパの文化と科学の衰退を感じてしまいます。中世における衰退が無くローマ時代の技術力がそのまま続けて現在まで成長していたら、ルネッサンスなど必要なく、産業革命は1000年くらい早く起きたでしょう。そして、今頃、人類はもう火星に移住していたかもしれません。この技術力の遅れが全てキリスト教の責任であるとまでは言いませんが、少なくとも中世の宗教家たちの頭が固かったことが原因の一つであることは間違いありません。
次回は、各地の街を歩いて見つけたイタリアの花を紹介するつもりです。
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